モラトリアムPTの備忘録

まだモラトリアムを抜け出せていない兵庫県で理学療法士をしている者のブログです

教育と言う名の過干渉

ある程度理学療法士として経験年数を重ねると教育と言う言葉が周囲でちらつき始めます

後輩の大学院生と少し関わることもありましたが今は少しおやすみ中です
教育に関わるのってすごく有意義だし、価値のあることだと思います
その組織の将来を左右する投資です

教育に意欲のあるものがたくさんいるのは非常に良いことなのですが、教育と言う大義名分を振り回して過干渉している人が気になります

自分は自覚していないけどみんな同じ人間にしようとする、考え方から行動まで何から何までその人間の振る舞いをよしとする
そこからずれればそれは異端とみなして排除する、そん感じでしょうか

規模の違いはあれど管理職、同僚レベルでもそれは起こり得ます

花って種類によって育て方が異なります
手のかからない花もいますし、色々手をかけてあげないといけない花もあります

手をかけないといけない花は水をやらなかったら枯れますし、手のかからない花は手をかけても育ち方が特別早くなったりすることもないわけです

つまり、それぞれの育ち方ってあると思うんです。
教育って成長を邪魔しないことだと思ってます

どこに種を植えるのか、どういう花の植える位置を構成するのかそれは花の知るところではありません

すへ手の花が咲いた時きれいなコントラストで魅了できるかどうかは植える人間の判断です

何がいいたいかというとコンセプトのない教育はまとまりがなく見ていても不快になるということです

花それぞれ一本づつ見ていれば綺麗なのにもったいない

これが、できていないとやれこの花は育つのが遅いから過干渉したりしまいには切り捨てるみたいなことがおこるわけです
花のせいではないです植える人間の技量ですかね

花の水やり係はコンセプトを考える人間でなければもっと最悪、自分の考えるコンセプトにすこしづつ手入れの仕方が変わります。これが現場での過干渉の原因

現場の過干渉は何とかしてあげたい思いの現れですし、それ自体は責めるべきものではないと思います

きれいな品種、素晴らしい設備、肥料やら持っていてもコンセプトが揺らげば綺麗な花壇にはなりません

現場で起こるトラブルを花に例えて書いてみました
みんなが綺麗に咲き誇る花壇を造り上げれる日が来るといいですね